長崇山・妙興寺の紹介/日蓮宗由緒寺院本山

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千葉市若葉区野呂町738

野呂檀林/長崇山・妙興寺

名称/長崇山 妙興寺

宗派/日蓮宗由緒寺院 本山
所在地/千葉県千葉市若葉区野呂町738

長崇山『妙興寺』の縁起

寺伝によれば、宗祖日蓮聖人の大檀越曽谷入道教信の子である曽谷四朗左衛門直秀(開基)が出家して道崇と号し、建治元年(1275)、現境内の南方800m、鹿島川支流を隔てた加納ヶ丘の地に法華の道場を開いたとされる。なお、曽谷氏は千葉県市川市の曽谷大野地区を領する豪族で、教信は宗祖の生涯を通じての支援者であった。

この頃、宗祖は佐渡流罪ご赦免の翌年で、すでに身延に入っておられた為、弟子の中老僧・大受阿闍梨日合上人を遣わし、開堂供養を行い開山とした。同上人は天津の領主工藤吉隆公の舎弟にあたるとされる。

その後、堂宇が建立され七堂伽藍を有していたとされるが、永禄十二年(1569)、里見氏の兵乱によってことごとく焼失。天正三年(1575)、当地の地頭・斉藤善七郎胤次公が再建願主として、現在地の土地を寄進し、その後、講堂等堂宇を建立され、さらには天和二年(1682)松平安芸守(広島)により一切経蔵が寄進建立されている。

天保五年(1834)、山火事で堂宇を失い、すぐさま再建が図られ、天保七年(1836)に車裡を建立、文久三年(1863)より七年をかけて本堂が建立され、今日まで七百三十余年の法灯を伝えている。

隆盛を誇った野呂檀林(談所)

檀林の設立には諸説あるが、慶長の初頭頃、または寛永七年(1630)に不受論(身池対論)後、中妙院日観上人を池上より迎え、「野呂檀林」(談所)を開設した。当時としては、まれに見る大講堂を有し、学侶の養成を行ったとされる。

寛文元年(1661)には硯学・安国院日講上人が『法華玄義』『法華文句』を講ずると全国から学僧が集まり隆盛をきわめた。しかし、寛文六年(1666)、幕府は上人の唱える不受不施理論を非とし、同上人を日向(宮崎県)に流罪に処し(寛文惣滅)、しばらく寺運は衰微した。

その後、また檀林も勢力を盛り返したとされるが、天保五年の火災で堂宇を失い、閉講を止むなきに至ったとされている。檀林の始終時期については不受不施の弾圧及び、火災で資料を焼失して定かではない。